この記事でわかること
西洋絵画について興味がなくても、「モネ」という名前や彼の作品である「睡蓮」について知っておられる方は少なくないと思います。
また、「印象派」という言葉についても一度くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか?
クロード・モネは19世紀の中盤から後半にかけて流行した「印象派」というムーブメントの代表格としてよく語られます。
しかし、どんな人物であったのか、彼の作品にどのような意味があるかについてはご存知無い方も多いのではないでしょうか?
この記事では、クロード・モネについてわかりやすく徹底解説していきます。
この記事でわかること
- モネってどんな人?
- 作品の特徴は?
- 代表作は何?
クロード・モネってどんな人?
基本情報
クロード・モネのプロフィールは以下の通りです。
- 名前:クロード・モネ(Claude Monet)
- 生年月日:1840年11月14日
- 死没:1926年12月5日
- 出身:フランス
モネが生まれた頃のフランスは動乱の時期でした。1930年にはフランス7月革命が起こり、1948年にはフランス2月革命が起こっています。王政から民主国家へと少しずつ変容していく歴史的転換期を迎えていたのです。
絵画においても変化が大きく、それまでの古典的技術を求めるアカデミズム的な絵画が1番偉いとされていた時代にドラクロアやマネ、クールベといった画家達が一石を投じていったのです。ルールに縛られた絵画世界においても「自由」が求められるようになったのです。
モネってどんな人?
画家になるまで
モネは、幼少期から絵を描くことは上手だったようです。青年時代にはカリカチュア(対象を誇張して描く風刺画のようなもの)を描いて売ることで小銭稼ぎをしていたほどです。それからしばらくして、モネは風景画家のブーダンと出会います。この出会いがモネの画家への道を切り開く転機となったのです。ブーダンは絵の描き方をモネに教えました。そして絵の描き方を教わっているうちに、本格的に絵を描きたいという気持ちが強くなっていったのです。
それからモネは画塾に通うことになりました。そしてしばらく後にシャルル・グレールという画家のアトリエに弟子入りすることになりました。そしてここで出会ったのが後にその道をともにすることになるシスレー、バジール、ルノアールと出会うことになるのです。
サロンへの挑戦、そして印象派展へ
モネが生きていた時代において、画家の成功=サロンへ出展して称賛を受ける、でした。サロンとはアカデミーが正式に開催した展覧会であり、出展するためには審査を通過する必要がありました。当時のサロンは厳格でしきたりが重んじられていたため、アカデミーによって確立された古典的技術が求められました。
初めのほうこそモネの絵は評価され、何度か入選を果たしましたが、モネの絵は次第に変化を遂げていきアカデミズムの反感を買うことになりました。モネの絵はより自由で自然に描くことを重視するようになっていったのです。そして最終的にはサロンへの出品をやめてしまいました。
そして遂にモネは仲間達とともに自ら展覧会を立ち上げることを決意しました。それが「印象派展」です。開催以前はそもそも「印象派」という言葉時代が存在しておらず、展覧会の名前も「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」といったものでした。この展覧会は、審査なしで出展することができる「自由」がテーマの展覧会でした。
そしてモネはこの「第一回印象派展」に「印象・日の出」を出品することになりました。この絵こそ、後にマスコミが展覧会そのものを揶揄した「印象派」という名前の語源になったと言われています。
「印象・日の出」を出品した「印象派展」こそ、西洋絵画史における大きな転機となったのです。
晩年
モネは晩年をジヴェルニーという田舎で暮らします。
モネは最初の妻であったカミーユを亡くし、二人目の妻であるアリス・オシュデとその連れ子達と暮らしていました。
この頃にはモネは連作を描くようになります。同じ場所の季節や時間の移ろいを表現する、絵画における新境地にたどり着いていたのです。そんな中で生まれたのが「睡蓮」です。晩年、モネは大装飾画で「睡蓮」を描くことに没頭しました。そして1926年病に伏し、86歳で永眠しました。
モネは比較的長生きでしたし、生前すでに一定の評価を受けていました。モネの少し後の時代にはゴッホなどの稀代の天才も現れますが、37歳で亡くなるまでに絵は殆ど売れず死後に評価されることになったりと、必ずしも生前に評価を受けられるわけではありません。19世紀から20世紀にかけての激動の時代に様々な画家たちの生死や浮き沈みを横目に見続けて生きながらえたモネは、まさにその時代の代表的画家であると言えます。
どんな絵を描いたの?
前述した通りでモネは「印象派」を代表する画家の一人です。
「印象派」の特徴は、「外光」と「原色」です。19世紀はチューブ絵の具が登場したことにより、それまで室内で描くことしかできなかった油彩が、外でカンバスを広げて描けるようになったという時代背景もあり、「外光」が積極的に取り入れられるようになりました。また、それまでのアカデミズム的な技術としては原色を用いることはタブーとされていましたが、印象派においてはあえて原色を用いることにより色鮮やかで自然な絵を描くことがされました。
これらの「印象派」の特徴はそのままモネの特徴でもあります。
モネは風景画を描くことを得意としましたが、そこに時間や季節感も表現するなど新しい技術を開拓しました。
どのような絵を描いたかについては次節にて紹介します。
また、印象派の特徴については別記事でも紹介してますので、気になる方はこちらもどうぞ!
代表作は?
モネの絵は時代によって移り変わりますが、ここではそれぞれの時代の代表作を紹介します。
印象・日の出
この作品は上述したとおり、第一回印象派展で出展された作品であり、「印象派」という名前の由来にもなった歴史的に非常に重要な作品です。遠くから見るとぼんやりした風景として認識できますが、近づいてみると原色の絵の具がそのままぬられていて途端に絵の形がつかめなくなる、「印象派」の特徴がしっかりと組み込まれています。
ラ・ジャポネーズ
この作品は、当時のパリが日本ブームだったことがよく現れている作品です。
当時のパリは万国博覧会で日本が初めて出品し、その独特な画法がパリの人々からみて画期的であったことから一大日本ブームが巻き起こっていました。
モネも日本文化にどっぷりとハマり、この「ラ・ジャポネーズ」を描きました。絵のモデルは一人目の妻であるカミーユで、モネが愛妻家であったことも伺える作品です。
連作「睡蓮」
モネはジヴェルニーに移り住んだ後は、幾度となく「睡蓮」を描きました。モネがジヴェルニーに作った家の庭には大きな池と橋があり、池には睡蓮が浮かんでいました。その光景も日本の庭を模したものでした。モネは睡蓮をいろいろな季節、時間で少しずつ変化していく様子を機微に捉え、何十枚もの「睡蓮」を描き続けました。
まさに晩年のライフワークとも言える作品群です。
終わりに
今回は、モネについて紹介しました。
ここではわかりやすさを重視するためにざっくりの説明になりましたが、モネの魅力はまだまだ語りきれないほどにたくさんあります。
モネの人生についてもっと掘り下げた記事は近々アップしたいと思いますので、興味があればそちらもぜひ御覧ください。
コメント